鄭道昭は北魏(三八六―五三四)時代の代表的書人で、現在の河南省開封の出身です。中国では男子が成人すると、字という本名以外の名をつける習慣がありますが、鄭道昭の字は僖伯で、また自ら中岳先生と名のったりしました。 書道史を学習した人なら鄭道昭といえば、すぐ「鄭羲下碑(鄭文公下碑)」を思い起こすことでしょう。この碑の名前の「鄭羲」とは、鄭道昭の父の名前です。父の生前の業績をほめ讃えて、鄭道昭によって雲峯山の麓に刻されたものです。鄭羲下碑には父の偉業のほかに鄭氏の祖先のことや、家族のことも記されています。それによると、長男(鄭道昭の兄)の懿は性質が温和であり、才能がすぐれ、秀才であるという評判が高かったといいます。末子の道昭は博学で明敏、その才能は人並み以上に抜きん出ていて、古い書物を研究し、篆書にも詳しかったといいます。兄の懿は給事黄門侍郎(詔勅の吟味や出納)・太常卿(宗廟の礼式)・使持節・督斉州諸軍事・平東将軍・斉州刺史(州の長官)となり、道昭は秘書丞(図書寮の役人)・中書侍郎(詔勅の記録・伝達)・司徒諮議・通直散騎常侍(詔勅の吟味や出納)・国子祭酒・秘書監・司州大中正・使持節・督光州諸軍事・平東将軍・光州刺史となったと記されています。この碑文の肩書だけをみても、懿と道昭の兄弟は、かなりのエリートであったことがわかります。
当時、中国の北方では遊牧民族の建てた小さな国々が乱立し、互いに争っていました。遊牧民族である鮮卑族の拓跋氏の建てた北魏によって四三九年に華北の混乱は統一されます。北魏は都を平城(大同)に定め、その後、孝文帝(在位四七一―四九九)の時には、都を洛陽に移します。孝文帝は鮮卑風の服装や習慣を漢人風に改めたりして、積極的に漢文化を吸収しようとしました。また王権と仏教の一本化も強力に推し進め、龍門の石窟造営もこの時から始められました。 この北魏の王朝では、皇帝が特に重んじた四つの名門家がありました。鄭氏一族は中原地方の名門で、皇子と縁組みするほどの第一級の貴族でした。父、羲は文学で名が知られ、そのうえ軍事的才能にも秀でた人物です。 鄭道昭は、あの長い肩書の一つにみられる国子祭酒、つまり国立大学の学長格となり、それから学問に深い人が任命される官の秘書監となります。その後、光州の刺使(州の長官)となり、山東の地へ赴任してきます。役所の位置は現在の莱州です。鄭道昭の摩崖はこの光州刺史としての在任中、最も多く刻されました。その後、青州の刺史となり、そしてまた中央に戻って秘書監となり、亡くなります。時は、熙平元年(五一六)で、死後、文恭と諡されました。 正史の列伝にも鄭道昭のことが載っています。しかし、生年や亡くなった時の年齢が記されていません。残念ながら不明です。鄭羲下碑中にせめて自分の生年をも記しておいてくれたらと悔やまれてなりません。 鄭道昭には五人の子供が生まれました。その第三子に鄭述祖がいます。鄭述祖はのちに父と同じ光州刺史となりました。書の法も達者で隷書を得意とし、北斉時代の代表的書人とされています。 鄭道昭は、山東省にある天柱山・雲峯山・太基山・百峯山と、これら四つの山々に登っては、実に多くの詩や題字などを岩や壁などに書き、刻させました。鄭羲上・下碑以外ほとんどの石刻は神仙に関するものです。天柱という名も雲峯という名も鄭道昭自らが名づけたものといわれています。 山東半島一帯は、古来から神仙道が盛んな地で、方士(道士)たちは、仙人となる術を説いていました。そして、東の海上にある蓬莱・方丈・瀛洲の三神山には、不老不死の薬があると唱えていました。秦の始皇帝や漢の武帝は、これを非常にほしがり巨額の富を費やした話は有名です。この山東の地は、晩年の鄭道昭を神仙狂にさせる素地が十分にあったといえましょう。 |