| 管仲の墓は臨淄駅の東約1キロの牛山のふもとに位置しています。
管仲(?~前645)
名は夷吾。字は仲。後世に管子とも称された。潁上の人。若い頃、鮑叔牙と友人となった。鮑叔をよくあざむいたが、管仲が貧窮していたことを知っていた鮑叔はそれに不満を漏らさなかったという。鮑叔は斉の公子・小白に仕え、管仲は同じく公子・糾に仕えた。小白と糾とが斉の公位をめぐって帰国を争うと、管仲は魯の軍を連れて待ち伏せし、小白を弓矢で射た。矢は小白の帯の留め金に当たって、命を拾ったが、小白は死をよそおって、先に斉に入った。小白は即位し(斉の桓公)、魯軍を迎え撃った。糾は殺され、管仲は魯に逃げた。桓公は管仲を殺したいと思ったが、鮑叔が覇者となるには管仲が必要だと説いた(管鮑の交わり)ため、用いることを決めた。桓公は管仲を召し取って我が手で処刑したいと偽って、魯から引き渡させた。管仲は大夫となり、斉の国政をあずかった。五軒の家を単位とする兵員登録制を定め、物価の均衡をはかり、製塩業の利益を設定し、貧困を救い、能力ある者を登用して、斉は富国強兵に成功した。桓公は覇者となり、管仲の富と名声もそれに匹敵するにいたった。「倉禀実ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る」は管仲の名言。
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